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西国観音巡礼のコースには、前項の札所一覧を見ていただけばわかりますように、三十三ケ所の札所の他に次の三つの寺院が番外札所として含まれています。 |
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8番 長谷寺の次の 発起院 |
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14番 三井寺の次の 元慶寺 |
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24番 中山寺の次の 花山院 |
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この三つの寺院はいずれも西国巡礼の開始 ・発展に関係のある寺院であるために特別な札所として番外扱いで巡礼のコースに組み入れられたのだと思われます。最初の発起院は西国巡礼の創始者とされている徳道上人を祀っている寺院です。 あとの二つ、まず元慶寺は花山天皇が剃髪・出家なさった寺院であり、次に花山院は花山法皇が隠棲された寺院だとされていて、いずれも西国巡礼の再興者とされている花山天皇※(法皇)にゆかりのある寺院なのです。
※天皇は退位すると上皇( 太上天皇 ダ(イ)ジョウ )と呼ばれ、 出家して仏門に入った上皇は法皇と呼ばれた。 「院」は上皇・法皇などの御所〔別邸〕や貴人の邸宅のことだが、そうしたところに住む上皇・法皇などの尊称としても用いる。 |
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西国観音巡礼の再興者が花山法皇だということをご存知のは方は多いと思いますが、その花山法皇が、時の権力者たちによる、権勢確立のための政治の裏の動きに翻弄された犠牲者であり、その若き日々が苦く悲しいものであったということはあまり知られていないように思います。西国観音巡礼の再興者とされている花山法皇がどんな思いを抱えて寺々を巡礼しておられたのか。 西国観音巡礼の背後に、実は暗く、醜く、厳しい権力争いの歴史的な一場面があったことにも触れておきたいと思います。 |
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花山天皇は元慶寺で剃髪・出家なさったとされていますが、その時のいきさつを、平安末期頃に書かれたとされている歴史物語の「大鏡」は次のように記しています。
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番外 元慶寺 山門 |
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[ 大 鏡 ]
次の帝、花山院の天皇と申しき。冷泉院の第一の皇子なり。御母、贈皇太后宮懐子と申す。(略) 同じ(安和)二年八月十三日、春宮にたちたまふ、御年二歳。天元五年二月十九日、御元服、御年十五。永観二年甲申八月二十八日、位につかせたまふ。御年十七。 寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましくさぶらひしことは、人にも知らせたまはで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせたまへりしこそ。御年十九。世を保たせたまふこと、二年。その後、二十二年おはしましき。
あはれなることは、降りおはしましける夜は、藤壺の上の御局の小戸より出でさせたまひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、「 顕証にこそありけれ。 いかがすべからむ。」と仰せられけるを、「 さりとて、とまらせたまふべきやう侍らず。神璽・宝剣渡りたまひぬるには。」と、粟田殿の騒がし申したまひけるは、まだ帝出でさせおはしまさざりける前に、手づから取りて、春宮の御方に渡したてまつりたまひてければ、帰り入らせたまはむことはあるまじく思して、しか申させたまひけるとぞ。
さやけき影をまばゆく思しめしつるほどに、月の顔にむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり。」と仰せられて、歩み出でさせたまふほどに、弘徽殿の女御の御文の、日頃、破り残して、御身を放たず御覧じけるを思しめし出でて、「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかに、かくは思しめしならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来なむ。」と、そら泣きしたまひけるは。(略※)
花山寺におはしまし着きて、御髪下ろさせたまひて後にぞ、粟田殿は、「 まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、必ず参りはべらむ。」 と申したまひければ、「 朕をば謀るなりけり。」とてこそ泣かせたまひけれ。あはれに悲しきことなりな。日頃、よく、御弟子にてさぶらはむと契りて、すかしまうしたまひけむが恐ろしさよ。東三条殿は、もしさることやしたまふと、危ふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺よりぞうち出で参りける。寺などにては、もし、押して、人などやなしたてまつるとて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもりまうしける。 (花山天皇)
[小学館 日本古典文学全集 ]
※わかりやすくするため、漢字表記・ルビの一部を改変・追加したところあり。
(略※) 省略部分の内容 天皇が道兼に導かれて花山寺(現在の元慶寺)へ行く途中、陰陽師の安倍晴明の家の前をお通りになると家の中から、晴明の声が聞こえる。天変により天皇の退位を察知した晴明は宮中に参内、奏上しようとするが、とりあえずすぐに式神を宮中に向かわせようとして参上を命じると、式神はただ今天皇が家の前を通過なさっていると答えた。
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次の帝は、花山院の天皇と申し上げました。冷泉院の第一皇子です。御母は、贈皇后宮懐子と申し上げます。(略) 同じ(安和)二年八月十三日に、春宮におなりになりました。そのとき御年二歳でいらっしゃいました。天元五年二月十九日に、御年十五歳で御元服なさいました。永観二年甲申の八月二十八日に、御即位なさいました。それは御年十七歳のときのことでございます。 寛和二年丙戌の六月二十二日の夜、驚きあきれる思いをいたしましたのは、誰にもお知らせにならないで、ひそかに花山寺におでかけになって、御出家、入道なさっておしまいになった( ことでございます )。当時御年は十九歳でした。帝として世をお治めになること二年。御出家の後、二十二年間御存命でいらっしゃいました。
しみじみと御同情にたえませんことは、帝が御退位になりました夜( のことで、その夜 )は、帝が清涼殿の藤壺の上の御局の小戸からお出ましになりましたが、有明の月がとても明るく出ておりましたので、「あまりに明るく、見通しがよくて人目につきそうだなあ。どうしたらよいのだろうか。」とおっしゃったのですが、「そうだからといって、( いまさら )御出家を思いとどまりなさってよいわけはございません。皇位継承のしるし(三種の神器)の神璽も宝剣も(八尺瓊の勾玉も天叢雲の剣も )すでに皇太子の御方におうつりになってしまっておりますからには。」と、粟田殿藤原道兼公がせきたて申し上げなさいました、と申しますのは、まだ帝がお出ましにならなかったその前に、道兼公がみずから神璽・宝剣を手に取って、皇太子の御方にお渡し申し上げなさってしまっていたので、万が一にも帝が宮中へお帰りなさるようなことは、あってはならないこととお思いになって、そのように申し上げなさったのだということです。
澄み渡って明るい月の光を、まぶしく、気がひけるように帝がお思いになっているうちに、月の面にむら雲がかかって、少しあたりが暗くなっていったので、「 私の出家の望みは成就するのだなあ。」とおっしゃって、歩き出しなさる時に、帝は故弘徽殿の女御のお手紙で、ふだん、破り捨てずに残しておいておそばから離さないで御覧になっていたお手紙のことを思いだしなさって、「 しばらく、待て。」とおっしゃって、それを取りに御所にお入りになりました、ちょうどその時ですよ、粟田殿が、「 どうして、このように未練がましくお思いになるようにおなりになってしまったのか。もしただ今の、この機会を逃してしまったら、自然に差し障りもきっと出て来てしまいましょう。」と、うそ泣きをなさって空涙をお流しなさったのは。(略※)
花山寺にお着きになって、帝が御剃髪なさって( 出家された、その )後になって、粟田殿は、「退出いたしまして、私の父大臣兼家にも、私のまだ変わっていない出家前の姿を、もう一度見せ、これこれと事情をご報告申し上げて、必ずここにもどって参りましょう。」と帝に申し上げなさいましたので、帝は「さては私を、だましたのであったな。」とおっしゃってお泣きになりました。しみじみと心痛む悲しいことですよ。( 道兼は )ふだんは、よく( 帝が出家なさったら、私も出家して、ともに仏道修行する )御弟子としてお仕えしましょうと( 帝に )約束して、おだまし申し上げなさったようなやり方、それは恐ろしいことですよ。東三条殿は、ひょっとして、( 粟田殿が院とともに )出家するようなことをなさりはしないかと、心配するあまり、このような護衛をするのにふさわしく、思慮分別のある者たち、なんのだれそれというすぐれて有名な源氏の武士たちを、( 帝の )お見送りのために( ご警護として )お添えになったということでした。京の( 街中の )うちは隠れてついて行き、加茂川の堤の辺りからはおおっぴらに姿を現してお供し申しあげたということです。( とりわけ、)寺などでは、ひょっとして、誰かが無理強いをして、( 粟田殿を )出家させ申しあげるかもしれないというので、一尺ほどの刀を手に手に抜きかけてご守護申し上げたということです。
[ 訳 山寺行好 ]
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番外 元慶寺 本堂
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花山天皇は平安時代中期の安和元年(968)に第63代冷泉天皇の第一皇子として生まれ、永観二年(984)に第64代円融天皇の後をうけて16歳で即位し、第65代の天皇になりました。が、時の権力者であった藤原兼家の謀略にかかって、わずか二年後の寛和二年(986)に十九歳の若さで退位、出家させられてしまったのです。 |
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藤原兼家※は、当時すでにその娘の超子が冷泉帝の、詮子が円融帝の后妃になっていて、かなりの権力をもっていました。が、さらに高みを目指す兼家は、詮子の生んだ孫の懐仁親王を天皇に即位させ、自分がその外祖父として摂政、またいずれ関白となって自分の権勢をゆるぎないものにすること[摂関政治]を目論んでいたのです。そのためにはまず花山天皇を退位させることが必要だったのです。 |
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※ 藤原兼家は、藤原道隆(「枕草子」に出てくる中宮定子の父親)、藤原道長(平安時代の最高権力者)、藤原道兼(粟田殿)らの父親。平安女流文学の先駆とされる「蜻蛉日記」の作者はこの兼家の妻の一人。 |
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即位から二年目の寛和二年(986)、前年に寵愛していた懐妊中の女御の忯子を亡くした花山天皇は深い悲しみに沈んでいました。6月、兼家はそうした状況を利用します。息子の道兼(粟田殿)に命じて、皇位継承のしるしの品をひそかに皇太子(孫の懐仁親王)側に渡してしまっておくなど、周到に段取りをつけたり、息子の身の安全をはかって警護の武士をつけるなど、万全の下準備をしたりしたうえで、道兼(粟田殿)に自分も一緒に出家してずっとお仕えするからと言わせてためらいを見せる花山帝をだまし、宮中から無理やり花山寺へと連れ出して退位、剃髪させてしまったのです。こうして花山帝は兼家の謀略の犠牲者となってしまったのです。 |
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花山帝が退位、剃髪なさったのは6月22日のことでした。7月22日、春宮※=皇太子であった兼家の孫の懐仁親王が一条天皇として即位します。それに先立ち、兼家は花山帝の退位、出家からわずか二日後の6月24日に摂政※になっています。その後、兼家は太政大臣になったりもした後、正暦元年(990)5月に関白になりますが、病気になって程なく出家し、7月には亡くなります。没後、兼家の長男の道隆が関白になります。このとき、花山帝出家の際には大役を果たした三男の道兼(粟田殿)は関白の位を譲られなかったことを不満として父兼家の喪に服さず、遊興にふけっていたとされています。そうした道兼も、道隆が亡くなり、長徳元年(995)4月27日に関白の宣旨を受けますが、参内してその就任の御礼を申し上げた5月2日から七日後の5月8日に流行病で亡くなってしまい、「七日関白」の異名をとることになります。 |
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春宮=東宮とも書く。皇太子のこと。 ※摂政=幼帝または女帝のとき、天皇に代わって政治を執り行った職。幼帝の成人後は関白 (天皇を補佐して政治を行った最高位の令外の官) となるのが普通であった。 |
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こうして謀略その他さまざまな手段を用いて手中に収めていった兼家一族の権勢は兼家亡き後、多少の曲折はあったにしても、結局、道隆、道兼の弟、五男の道長にうけつがれていきます。道長はさらにその権勢をゆるぎないものにして比類のないその栄華を誇ることになるのです。
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第27番 円教寺
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花山法皇は花山寺で剃髪・出家してしばらく修行した後、書写山円教寺に性空上人を尋ねて教えを請うたり、比叡山で修行、諸法を授けられたり、粉河寺や熊野三所権現に参詣、修行したりもしたようです。熊野では法師達と験競べをし、強い法力を示して僧たちを感心させたりしたこともありました。こうして諸所でさまざまな形で重ねられた修行のうちの一つとして西国三十三所巡礼も行われたのだと思われます。 |
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そうした一方、花山法皇はもともと少々普通とは違った、多情で激しいところのある性格の持ち主だったようで、退位前から常軌を逸した振る舞い・奇行や奔放な女性関係などがいろいろとりざたされていたようですが、出家後も道隆の息子の伊周・隆家らとの間に女性関係も絡んだトラブルをおこしたり、道長の競馬の際には人目を引く世間に類のない珍しい装束を身に着けて現れ、人々の目を釘付けにしたりなど、いろいろとあったようです。また、それとは違った面もお持ちで、和歌や絵画・工芸などのさまざまな方面に優れた才能をお持ちになっていた方でもあったようです。多くの歌がいくつもの歌集に収載されていることはもちろん、「拾遺和歌集」などの撰者とされていたり、多くの歌合を主催したとされていたこともあり、当時の歌壇で重きをなしていたこともあったようです。花山院御所を御造営の際には自ら殿舎の構成・配置をお決めになったり、家具調度類にまで細かい目配りをして作らせたりなさったりしたこともあったようです。 |
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このようにさまざまな面を持つ多才な花山院(法皇)は、きっと豊かな情感の持ち主であったに違いありません。しかし、その情感は、文学芸術的な側面では見事な結果をもたらす一方、精神的な側面ではしばしば自他に対する激しいさまざまな感情の嵐となってその内部に吹き荒れていたのではないでしょうか。他者に対する強く激しい愛情や憎悪、自己に対する深い絶望、悔しさ、悲しさなどなど。さまざまな修行や巡礼に黙々と励んでおられたであろう法皇の姿は、悩み苦しむ自分を何とかしたいと思い、自分の中に渦巻くさまざまな情念をなんとか鎮めようと必死になっていらした姿そのものだったのではなかったでしょか。 |
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法皇は西国巡礼を終えた後の長保5年(1003)、俗塵を避けるかのように山深い地の花山院に隠棲され、五年後の寛弘5年(1008)2月8日、四十一歳の生涯の幕を下ろされたのでした。
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番外 花山院 |
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